「人」をみてものづくりしてますか?

うう・・・寒い・・・

家族がみんなどうぶつの森をやっていて、放置されている・・・。

MacBookよ、お前だけだよ心配してくれるのは。ずびーーーーー。

そもそも、なぜMacBookを使っているのかというと、それは企画を練っていたためなのですが。

いま、ありがたいことに同時進行で3つの大きな企画をかかえている。

どれもずっと興味を持っていた分野の仕事。

企画というと何をするかというと、わたしの場合はコンサル的な、会社との打ち合わせを行いながらのコンセプトメイクから、デザインはもちろんのこと、小売ならコスト感から販路、そこに置く什器まで。

全てのディレクションという感じになる。

ディレクターとかプロデューサーとか名乗った方がいいのではと言われるのだけど、わかりにくいから「企画」。

そんなに偉い身分でもないのでなおさらである。いつか名乗ってもいいかもとか、別の肩書きが思い付いたら変えようと思う。

話が逸れた。

よく、どんな風に企画を作るのかと言われる。

直近だとToday’s patternは多方面からお褒めの言葉を頂いたプロダクトの1つであるし、個人的にも好きなプロダクトだ。

思い返してみれば、マーケットインとかプロダクトアウトとかそういう話をすることがあるくせに、ずばりわたしはそういうことを、全くと言っていいほど考えない。

アイディアを練る段階では本当に考えてないに等しい。

じゃあ何を考えているのか。

人。

だれか人のことを考えている。

ぼんやりとその人のことを考えて、どうやったらより喜んでもらえるかを考えて生きているといっても過言ではないかもしれない。

 

答えは自分の世界の外に求める

わたしにも好きなものはある。
ただ、ありがたいことに嫌いなものはきゅうりくらいなのです

高校生の頃は、お昼休みになってみんなが一斉にお弁当を開けると「む!?今日は誰かのお弁当にきゅうりが入っている」と気がつくくらいにはきゅうりが嫌い。

そんなきゅうりも嫌いすぎて一周回って好きなのでは、と思われることもある。嫌いである

話が逸れた。

そう、きゅうりくらいしか嫌いなものにあげられないほど、それほど「つよい持論」をあえて持たない。

逆にいうと、持論を強くしないことが持論である。

何かに精通した人、そうではない人、子ども、お年寄り、全ての人にはすべての人の感じ方があり、極端に誰かを傷つける表現を除けばそこに「絶対的な間違いなど存在しない」という考え方をしている。(極端に誰かを傷つけるというのもまた難しい線引きで、弱者が肥大化することも加味している。)

要するにどんな考え方も否定しない。
嘲笑ったりしてはいけない。

それが企画をするときのマイルールである。

これは業界的に…
むかしからこうだから…

それも立派な意見である。しかし、

むかしからこうだけど…
ふるくさくて…

それもまた立派な意見である。

どちらをどう打ち出すのかも、誰かを思い浮かべながらかんがえる。

わたしはその企画を送りたい相手を思い浮かべながら、ひとつひとつ取捨選択する。

服でいうと、「その服、誰の顔が乗るの?」っていう。

だっていきなり100人規模に愛されるプロダクトを考えるってかなりしんどいですよ。

このIT化の中で、
たくさんものが自動化されていく世の中でなんでアナログなんだと思われるかもしれない。データが全てだと。

ただわたしはどちらかというと、最後に残るのは『ものすごい人間味』なのかもしれないと思う時がある。

モチベーションに左右され、気分で考えが変わり、時間通りにいかない。そんな人間だけに残された部分が一番大切なんじゃないかと思うわけです。

だから、何をするにも、どんな時も、いろんな人のいろんな意見を聞きにいく。

自分の外側の世界との交信・・・いや謎の生命体と人間との交信・・・?

自分の外側の世界というのは本当に本当に面白い。
『◯◯は◯◯で◯◯をどう思いますか?』と聞いた時に『なにいってんのか意味わからん』でもいいんです。

なるほど!意味わかんないんだ!

と思うので。

それを聞く前の自分は『意味わかんない』と言われることすらわかってなかったわけで。

え!その色とその色合わせちゃうの!?みたいなのも、数日毎朝、昼、夜と見てみる。

腑に落ちる時もあれば落ちない時もある。

それでいいと思っている。

そしてその『感覚』を経営に落としこむときに裏付けをとるのが『数字』である。

 

デザインするなら数字を知らなくては

こう書くとかっこよさそうだが、みんな社長になれ!っていうことじゃない。ぜんぜん。

さて、ここまではデザインの話をしてきたかといえば自分としてはちがう。

どちらかというと、経営の話だ。

きゅうりの話ではない。

実は、わたしがデザイナーを名乗るのをやめたのにはこれがある。

海外でいうデザイナーというのは、とても重要な役割を占めるケースが多いのに対し、日本ではあまり重要視されない。

デザイナーという語感がもはや受け身なものだと思われがちだと感じている。

むしろ経営と対極にあると思われがちなのである。

でも何かをつくる・デザインすることにおいて、経営を無しには考えられない。むしろ経営においてデザインを無視することは考えられない。

同ポジションかそれに似た形で、組織の脳の部分に働きかけるのがデザインである。

まず経営や数字、アナリストたちに対して拒絶反応を示したり対立構造を作ることを、

私たちものを作る人間は辞めなくてはならない。
うにくま如きが人間様に楯突こうなんてあってはならない。

経営とデザインが同じ人でなくてはならない、とは思わない。それはケースバイケースと考えている。

しかしデザインは経営者と結びつかなくてはならないとは思う。

こういうやりかたもあります。

対立構造を作ってしまうと、これはなかなかできません。

不協和音がならないようにチームを作れるかも、大切なポイントと言えるでしょう。

ただし、これも同時に理解しておくべきであるのは、いうまでもない。

 

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中溝 雪未
About 中溝 雪未 69 Articles
1990年生まれ。コレクションブランドの企画室でインターンからデザイナーアシスタントとして勤務。その後アパレルブランドで布帛・ニットをはじめとするデザイナーの経験を積み独立。現在フリーランスとして企画・デザイン・パターンを担当。 プロダクトアウトなものづくりからマーケットインまで、偏らないバランス感覚を武器に、コンセプトメイクからお客様に届くまでをディレクションするプランナーとして業界を問わず活動中。